1000匹の犬

サイタローの感想ブログ

家族と疑似家族とミッドサマー

先日友人と「自分の好きなコンテンツに共通項はあるか」という話になりました。

持論ですが、創作物には「自分の抱える問いに対する答えを見出す」という側面があると思います。

そのため「好きなジャンル」=「自分が答えを求めている問題」であることが多い。

この友人との会話で、私が好きなコンテンツには「疑似家族」を描いたものが多いという自覚を得ました。

手塚治虫の「ブラック・ジャック」(ピノコと先生の関係性は親子であり夫婦でありひいては家族ですよね)、宮部みゆきの「ステップ・ファザー・ステップ」は疑似家族という概念のお手本のような話だし、小野不由美の「ゴーストハント」シリーズもあれは主人公の麻衣(とナルもか…)が家族(のような所属)を得ていく物語。

最近の作品だと週刊少年ジャンプで絶賛連載中の私的今一番面白い漫画「チェンソーマン」も、あれは主人公のデンジが愛を知り、家族を知る話ですよね。

そこで気づいてしまった。

私は「家族」という概念に割と屈折した思いを抱えている!!

「家族」に幻想を抱いている!!

ミッドサマーがなぜかこんなに刺さったのも、「家族」を題材にしているからでは??となり、改めて色々考えてみました。

 

ミッドサマー(字幕版)

ミッドサマーは主人公ダニーが実の「家族」を失い、ホルガ村という「疑似家族」を得る物語です。

「家族」と「疑似家族」の客観的な差異として「血縁関係」が挙げられます。

「血縁関係」はある種の呪いですよね。

そこに「愛」がなくても「血縁関係」があれば関係を継続させることができます。

ダニーは明らかにメンタルを病んだ妹を疎ましく思っていましたが、縁を切ることができませんでした。

なぜ縁を切れなかったのか?家族だから。「血縁」があるから。

「血縁」は「責任」に近いです。

それが「自らが生じさせた問題」ではなくても、血縁関係があるだけで自動的に自分の責任になってしまう。

なかなかに理不尽だよな~~となります。

(ダニーが妹に対して完全に愛がなかったとは思っていないけど、面倒だなという気持ちのほうが強かったと思う)

 

そんな家族(というか妹)を疎ましく思っていたダニーも、事故(事故か??)で家族を失ったあと、家族を求めるんですよ…

なぜ??

人は所属していないと生きていけない生き物なのか?

思うに、ダニーの自己評価はかなり低め。自分の価値を他者の基準でしか判断できない。

そのため「所属を失った」という価値の下落に耐えられず、新たな所属先を求めていた。

しかし、そのあらたな所属先となり得る彼氏のクリスチャンは、どうやらその器ではないっぽい。

そこで現れるのがホルガ村!!

ダニーはどんどんのめりこんでいきますよね。

 

「疑似家族」の何がいいかって、関係をつなぎとめる要因が「愛」しかない(ようにみえる)ところだと思うんですよ。

血縁関係のように「義務」が生じないので、本人たちの意思のみで解消の可否が決定できる。

ホルガ村はそこを利用しているよね。

ダニーの心理状態は「血縁関係もない私に、家族のように接してくれるということは、この関係性を保っているのは愛だ!」「本当の家族ではないから、嫌だと思えばいつでも解消できる!」ってなっていそう。

実際には村から逃げると殺されるし、愛ではなくて労働力や「生贄」としての価値を見出されているだけかもしれないけど。

 

 

「家族」を失い、(一見)家族のいいとこどりである「疑似家族」を得たダニー。

きっと彼女は今幸せですよ。本人が幸せならオッケー。

にしてもホルガ村は「家族」という制度をうまく利用していてなかなかやりおるな…と思った次第です。

 

そういえば夏至にあわせて各種サブスクでミッドサマー配信中らしいので、未見の方はぜひ!